SNS の良い面、悪い面みたいな話です。
または、ポピュリズムへの憤りのような話であります。
反芻思考してしまうので、意識化して書き留めておきます。
■SNS での、ストレスフルの系譜
少し前では、2011年東日本大震災の地震がありました。
死ぬかもしれない恐怖やストレス、デマや火事場泥棒的な二次被害に対する憤りやストレスがありました。
その後、パッと思いつく限りでは、そこまでストレスフルな出来事はなかったです。
それからグッと最近になり、2019年頃から始まった「香港加油!」でおなじみの「香港国家安全維持法」施行における民主化デモ。
多くの争いの映像、暴徒と化した人々、荒廃する街の様子がシェアされました。
そして、いまも全世界で猛威を振るうコロナウィルスです。
明日、自分が死ぬかもしれない恐怖や、マスク着用に関する争いなど、憂さ晴らしをするかのようにSNSは荒れました。
コロナ後は、多くの社会常識が大きく変化して、コロナという大きな流れの中で、連続して様々なことが発生します。
始めは、東京五輪の開催時期が直前に控えてたことで、開催是非の意見表明から次第に分断や攻撃的な発言の応酬につながっていきます。
過去のいじめ事件を掘り返してのバッシングもありました。
コロナや五輪開催など、見解の違いがハッキリした時期です。
人との意見が異なることが、大きなストレスになることを強く実感し驚きました。
当時は、そこまでストレスが掛かってるとは気づきませんでしたが、いま思い返すと、かなりストレスだったはずです。
その後、米軍のアフガン撤退時におけるクーデターで、凄惨な映像が世界中を駆け巡り、現在のウクライナ侵攻に至ります。
■「多様性」への違和感
まず大きく感じるのは、「異なる他人の意見は当然で、受け入れよう」の机上の空論さです。
実際、他人と意見が異なると、人間は社会的動物であるがゆえに不安に駆られます。
だから相手を説得して自分と同じ意見になるよう仕向けたり、自分に都合良く振る舞わせるため、コントロールしようとします。
ところが、相手も同様に価値観があるため、譲れない場合は衝突します。
皆が皆、心に余裕があれば受け入れられる場合と、余裕があっても受け入れられない(譲れない)価値観はあります。
その場合、「距離を置く」のが一番の解決策になります。
受け入れるのではなく、距離を置く。
お互いにとって一番健全な解決策です。
心に余裕があれば、「相手と自分は異なる意見なんだな」と冷静に気付けるため、不毛な反応をしなくて済みます。
自分と同じ価値観を持つ人たちと集まったほうが、豊かな人生を送れることでしょう。
もちろん、壁は作らずボーダレスであることが望ましいです。
ただ、異なる価値観同士は歩み寄れないことも少なくないので、お互いが引き返せなくなる前に(冷静なうちに)、適度な距離を保つことが重要です。
「受け入れる」と表現すると、自分の価値観を曲げるようで拒否反応を示す人も出てくるでしょうから、「距離を置く」、「適度な距離を保つ」ことが大切になります。
コロナ禍の「ソーシャルディスタンス」は、もしかしたら「人間同士の適度な距離感の重要性」を教えてくれてたのかもしれません。
■SNSへの過剰反応
SNS は、何かあった際の情報源として、スピーディーで優良な情報の宝庫です。
自分は、それなりにリテラシーはあるだろうと自負してきたし、有識者や情報を見極められれば、有効なツールです。
当然、自分は使いこなしてるとつもりでいたので、変なことにはならないだろうと本人は考えます。
しかし、「自分の心」はオカシクなっていました。
もともと、騒がしいのが苦手で、のんびりマイペースを好む性格です。
ところが、緊急事態で気づかないうちに気分が高揚し、ハイ状態になります。
ハイになると、動物的本能から「反応的」な行動になりがちです。
動物は、危機(緊急事態)が迫ったら、余計なことは考えずに対処するほうが生存確率が高まるからです。
こうした動物時代の本能の名残のため、「脊髄反射」してしまうのでしょう。
SNS 上だから、ネットの向こう側の世界の出来事と頭では判っていても、動物的本能が追いついてない状況です。
結果的に脊髄反射して、冷静になってを繰り返すと躁うつを繰り返してるような起伏が出来上がり、精神的に不健康になっていきます。
テクノロジーの進化と、人間の進化速度には大きな差があり、テクノロジーの進化速度に人間は追いつけていません。
進化人類学は、ブルーライトで覚醒してしまったり、脂肪を取り過ぎる原因を解き明かしましたが、それらはひとえに、人間が原始時代のままだからです。
または、別の考え方もあります。
■「憂さ晴らし」をするへの苛立ち
ウクライナ侵攻時に、何もできない自分に苛立ちを感じ、「なにか行動しなきゃ」と感情的になり、発露した行動が「デモ」や「戦争反対!」などの意見表明ではないでしょうか。
デモやネット上での潔い意見表明は、有名人であるほど多くの共感を生みやすく、無名の人でも他人から「いいね」を貰いやすい方法です。
一方、現実的には意見表明したところで、事態が好転することはありません。
単に「憂さ晴らし」でしかなく、鬱積した感情の集まりに、多くの情報はかき消されてしまいます。
始めは、意見表明することのミスマッチが原因かと考えてましたが、そういう訳でもありませんでした。
情報がかき消されるのは有害ですが、新たな発見だったのは、意見表明する人たちは多数派で割と普通のこと。
別に悪気はない人たちだったと気づけたことです。(もちろん、意図的にやってる人もいるでしょうが)
自分とは相容れない考え方ですが、出来事を客観的に見れたお陰で、苛立ちの原因は別にあると気づけました。
むしろ、人々が身を寄せ合って行うデモ活動には、とてもパワーがあります。
人が集まるところにパワーが有り、パワーにお金も引き寄せられます。
有事でなければ大きなビジネスチャンスを生み出すパワーです。
良いことは、フラットな視点であらためて良いと考えられたのは収穫です。
ただ、有事の際は願わくば、営利目的で行われていないことを望みます。
では、苛立ちの原因とはいったい何だったのか?
■「偽善者」への苛立ち
現実として、デモでターゲットにされる人のほうがパワーが大きいため、デモが効力を発揮しないであろうことは、容易に想像ができます。
Chang.orgの活動に参加/観察した結果、現実世界にほとんどまったく影響を与えていませんでした。
声を上げるだけでは、何も変わらないのが世の中です。
そうだとしても、当人たちがデモを行うなどで「憂さ晴らし」できれば、行き場を失った負のエネルギーが前向きなパワーに変わります。
だからこそ、行動自体に意味がある(生まれる)のだと理解しました。
当事者ではない人たちが行うデモ活動は、「相手の心に寄り添う手段」であり、当人たちが前に向きに、建設的になるための儀式であると納得しました。
ただ、何度もいうように、ロシア・ウクライナの衝突を好転させるには、ほとんど影響ありません。
デモ活動で惨事を知った人たちが、寄付をして多くの子どもたちを救うお金が集まるぐらいでしょうか。
注目度が高い案件となれば、多くの富裕層もこぞって寄付をするかもしれません。
ただ、もしデモで衝突事態をなんとかしようとするなら、ロシア国民たちがリスクを取ってデモ活動をする必要があります。
大事なのは、「リスクを取ってるか?」です。
「声を上げることは大切」と発言する人への苛立ちは、リスクに対する「無責任さ」やリスクを取らないことへの「軽薄さ」にあります。
自分たちは安全なところから口先だけで物を言い、承認欲求だけ満たしてスッキリする。
彼らの一連の行動に対する苛立ちです。
仮に、ロシアの人がデモを行えば効果はあり(リターンはあり)ますが、投獄されたり射殺される事(リスク)も起こり得ます。
リスクとリターンは表裏一体の関係です。
危害が及ばないところで、大声を出してストレス発散しても無意味、と指摘した理由です。
デモをするのは、ロシアやウクライナの"為"ではなく、自分たちの"為"です。
先ほども指摘したように、人々が集まるパワーはありますから、他人にも貢献しています。
しかし、ウクライナの"為"と、"偽"を語って大騒ぎするのは、"為"ではなく、"偽"。
まさに、"偽善者"ではないでしょうか。
悪いことには、注目を集めて自分のEC通販サイトに集客しようとしてる人もいました。
「やらない善よりやる偽善」などの言葉もありますが、偽善は偽善でしかありません。
逆に、"為"になってるなら、"偽"善ではなく善です。
単純なことですが、区別がついていない人は意外と多いです。
そして、区別がついてない人たちに対して、反応する自分が居ました。
『反応しない練習』を読み、何度もメモを読み返したはずですが、反応してました。
もちろん、ウクライナ侵攻で上昇に転じた米国市況を、投資のチャンスと捉えていたりするので、他人から見たら変わりないのかもしれません。
大きく異なるのは、「相手の為」と「自分の為」を混同してないことぐらいです。
結局、苛立ちの原因は何だったのか。
自分が、同じように振る舞えないことへの嫉妬でしょうか。
または、彼らの高いコミュニケーション能力に脅威を感じてるからでしょうか。
注目を集めることが上手な人は、往々にして高い能力を持ってるのも事実です。
「見たくないものを見せられてる」という感覚は拭えないですが、彼らにも理屈があり、その価値観=美意識で行動してることは間違いありません。
■冷静になって
自分自身が苛立ってしまう原因は明確にはなりませんでしたが、文章化することで冷静になれます。
似たようなことがあったら、反応せず心を消耗せず、文章にしたいです。
ウクライナの惨状で心を痛める気持ちは皆同じです。
ただし、どういう行動をするかが違います。
事態を好転させる(と自分自身が考える)適切な行動をとったら、後はそれ以上でもそれ以下でもありません。
むやみに反応することへの無意味に気づけるかどうかです。
悲惨な出来事に対して、火事場泥棒のような行動を取る人々がSNS上に居たとしても、憤る必要はないのです。
自分は彼らとは一線を画す、と気概を持つことが必要かもしれません。
繰り返しになりますが、価値観=美意識は人それぞれです。
法に触れなければ何でもありの世の中で、正解もありません。
心が情報の波にのまれそうになったら、文章に起こして冷静さを取り戻すのが一番いい方法です。