ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022-05-31

『存在の耐えられない軽さ』 フィリップ・カウフマン

 


 

『存在の耐えられない軽さ』 

監督:フィリップ・カウフマン 

 

気が向いたから観てみた!ぐらいのテンションだったけど、ハートを撃ち抜かれた映画でした。

予告編にあるから、ネタバレではないはずだが、サブタイトルが「a lovers story」とあるように愛のお話。自分は愛のお話が好きだと知りました。


「人生は私にはとても重いのに、あなたには軽いのね。その軽さに耐えられない。」 

 

恋愛のテーマでもあるが、男は淡白で冷淡ぐらいの方がモテる。(相手に執着し過ぎない) 

でも、好きな相手と関係を続けるには、淡白=軽薄さとなる。

観る年齢で感想は異なりそうな良い映画。

ウブな時にもみたかった。

 

https://twitter.com/oz_jp/status/1398682027847610369  

午前1:45 · 2021年5月30日

2021-05-31

映画『127時間』

 

 ~ざっくりあらすじ~

アメリカの自然の岩場をMTBで走るのが大好きな青年の実話ベースのお話。

いつもと同じ、慣れたコースを走り、いつも通り帰宅するはずだった。しかし油断もあり、落石に右腕を挟まれ、谷底から動けなくなってしまう。辺りには誰も居ないため助けも求められない。

死を目前にして初めて自分の人生と向き合い、恋人とやり直したい後悔の念に駆られる。生命の限界を超えた127時間後、主人公は〈決断〉する。

~感想~

実話ベースだし、そうなりますよね、って感想でした。

同じ実話ベースでも、『光にふれる』と違った点は、ストーリーへの共感が薄かったことに尽きます。

独り善がりの青年が死にかけて、周囲の大切さに気づきワガママを少し改めましたって程度の話。途中、ASMR を駆使した視覚・音響効果で、わりとイケメンである青年のいろいろな行動が、間近で感じられるような息遣いとともに感じられますが、女性などが俳優に首ったけでもない限りは「誰得?」状態でした。

個人的には、白昼夢エンドでも良かったような気がして、実話ベースだとストーリーに共感できるかが大きな分かれ目になるため、注意が必要になります。


監督・脚本・製作:ダニー・ボイル×作曲:A・R・ラフマーンの組み合わせは、『スラムドッグ・ミリオネア』で強烈なインパクトを受けただけに期待値がもの凄くあがっていたけど、今回に関しては、強烈さが足りず身の丈の生活みたいな内容だったので、その期待との差が色濃く出てしまいました。

もう少し、コロナで孤独を味わっているときに観られたら、映画を観らながら「ワガママ言ってて、申し訳ない」って気持ちで、心動かされたのかもしれません。

 

2019-12-17

映画『幸福な囚人』






映画『幸福な囚人』

※文章を修正しました(12/18)→冗長な内容削除
※文章を加筆修正しました(1/5)→内容を整理してリライト

■人の心に寄り添った映画

映画を観終わって、最初に「自分たちの心に、寄り添った映画」だった。

主人公は、好きな人と一緒になって、幸せに暮らしたいだけの不器用な男・澤田。ところが、澤田とその妻・和子を襲う困難は巨大でとても受け止めきれなかった。

澤田は弱音も吐けず、一人でどんどん背負っていき、破滅へと向かっていく。
激しいストレスにより歪んだ認知。次第にどこまでが現実で、どこまでが妄想か映画を観ている方もわからなくなっていく。

白昼夢をみているような感覚は、まるで主人公の意識を追体験しているようだった。

この澤田のように、政治に疎い人間は多い。
会社の人間関係でも男女関係でも脇が甘く、付け入る隙きの多い人間は愚図扱いされる。ピュアで誠実ともいえるが、社会では愚図になる。

そんな折、澤田の勤める会社に転職してきた有能な経歴の持ち主の同僚・岸本は語りかける。

「容赦するな、報復しろ」と。

岸本は映画の中では度々、「やられる前に先手を打て」、「舐められてるんだ」と澤田を煽ってくる。弱い立場におかれているからこそ、「舐められないため」「先手を打つため」に高圧的な態度を取る必要性を説く。

いわゆるマウンティング(パワハラ)だ。
その姿は、Twitterなどで他人に対して暴言を吐く(クソリプ)人たちと重なるところがあった。

他人に攻撃的になり、そして、ますます疎外されていく負のループ。

社会不適合という不幸。
今の時代に求められている条件、おかれた環境が合わないとこうなる。誰にでも起こりうることだ。そして”舐められないため”にもがけばもがくほど、孤独は増して疎外されていく。

まさに、この時代の多くの人が抱えている不幸の姿と重なった。

政治に疎い人たちは常に存在する。それも相対的に疎い人になるのかもしれない。
人が複数人集まった時点で、その場に必要な条件が暗黙のルールとして設定される。そのルールを満たせていない人、把握できていない人が疎い人だ。

つまり、ルールを把握していても条件を満たせない時点で、疎い人になってしまう可能性は誰にでも起こりうる。

「政治」=「ハイコンテクストへの適応力」だとすれば、この映画が観客にハイコンテクストさを試すようなシーンがあった。

それをどの段階で「察することが出来るか」。もしくは出来ないかも含め、観る人を試しているかのようだった。
(暗黙のルールを読めずに社会から落伍していくお話なのに、映画の外の観客に対しても、それを強いるとはイジワルで惚れ惚れした。でも、映画ってそういう要素が多分にある)

主人公の澤田は社内で不倫をする。困難な状況が重なり、思いを抱いていた同僚・美奈子と複数回に渡り逢瀬を重ねるのだ。それに呼応するように妻・和子の虚ろな描写は増す。観客は、和子が澤田の不倫に気づいているのか、いやただの偶然じゃないかとハラハラする。

そんな折、和子から投げかけられる言葉。

「私、かわいい?」
「なんかもう、疲れちゃったね」

この一連のやり取りは、衝撃的で決定的だった。
関係の終わりをそれとなく伝えるこの表現。鳥肌ものだ。

しかし同時に、本来ならこの決定的なシーンも、澤田は「自分の不倫が妻にバレてる」って気づいていない可能性もあった。これは、映画を観ている人でも、気づく人と気づかない人がいるのと同じ。

そういう細かい相手の心情の察知の積み重ねで、徐々に落伍したり関係が崩壊していく。そう思うと、やはり澤田は気づいてなさそう。元々、愚図だし激しいストレス下で、そこまで配慮する余裕もなくなっているから。

逆に和子は、(女性特有の?)繊細さで澤田の自分に対する気持ちの変化に気づき、絞り出した言葉が、先程の言葉だ。

和子は、これまでもきっと自分の違和感や苦しみを伝えようと行動で示してきただろうが、澤田は「(いつものように)和子は精神が不安定になってるな」としか思っていなかっただろう。

元々、精神を患っていた和子は、これを機に増々不調になっていく。

社会で抑圧を感じたり、そういった状況で大切な人との別れを経験した身としては、心の奥を突かれるような、とても刺さる内容だった。
それは自分の心を掬っているような、寄り添ってくれている感覚でもあった。


■映画『ジョーカー』との違い

この映画を知ったとき、同じく抑圧をテーマにして映画『ジョーカー』が思い浮かんだ。『ジョーカー』は、インセル(モテなくて女性や社会に対して恨みを持つ人たち)の観客たちが溜飲を下げる目的で作られた映画と評価したが、それに対する日本からの回答だと直感した。

”現実に打ちのめされ、凶行に及ぶ者”という意味では、澤田もジョーカーも一緒だが、心境がだいぶ異なる。

澤田は他者への愛を知っている。
その上で、他人から蹂躙されないために強行手段を取るようになる。


「他人から虐げられないために、(先手を打って)他人を虐げる」は、この映画の中で再三出てくるテーマだ。その考えに囚われた人(幸福な囚人?)も、とても独善的だが、現代社会で生きていて、誰もが思い当たる節はあるだろう。

インセルがこの映画を観たら、何を思うだろうか?

おそらく和子への愛情やハイコンテクストさを理解できないだろう。
むしろ、澤田の不倫相手・美奈子が、夫・薫に教育(という名の調教)されるシーンに興奮するだけじゃないか。

自分たちを悲劇の主人公と捉え、「頑張っているけど理解されない」と傷口を舐め合ってる独善的な男の印象の『ジョーカー』はとてもステレオタイプだ。
逆に、虐げられる中で他人を虐げることを学習して(調教されて)いく『幸福な囚人』の澤田にはとてもリアリティがあった。

登る山は同じでも、ルートが違えば見る景色や、その山への印象が変わるように、抑圧された人々を描く同じ映画でも、一方は傷の舐め合い、他方は「自分もそうなるかもしれない」と共感したのは、抑圧された人々に対する解像度の高さがそうさせたのだろう。


■美奈子の魅力とベッドシーン

劇中、美奈子の教育と称した虐待(調教される)シーンがあった。
シリアスで痛々しいシーンにもかかわらず、美奈子のわがままボディのインパクトは絶大で際立っていた。

その違和感の正体は、一般人だけど周囲から好奇の目にさらされ、美貌を狙われる美奈子の美人ならではの不幸だった。

映画の主題とは関係ないけど、若いうちはちやほやされた美奈子も、加齢とともに今度は自分の魅力が失われるのではないか、人から相手にされなくなるのではないかと不安にかられる。

それでも周りからしたら充分に美人で、自分が”そんなこと”で悩んでいるなど、他人には相談できない。下手したらやっかみの対象にもなるから、逆に周りへの配慮は欠かせない。

美人ゆえの抑圧だ。

常に周りからの監視下にあり、弱みを見せられない美奈子。
その心の拠り所が、自分よりも政治力が弱い澤田だった。

映画の予告編を観たときはベッドシーンが多く、エロスありの映画だと思っていたが、実際のベッドシーンはエロスの要素は少なく、心情描写とかとても意味のある内容だった。もう一回観たら、もう少し意味を正確に捉えられていたかもしれないけど、理解が追いついていなかった。抑圧の捌け口としてのエロスかな。


■イニシエーションとは?

理解が追いついてないといえば、「initiation」(イニシエーション)もそうだ。
映画の公式サイトのURLも「http://the-initiation.com/」で、予告編でも「イニシエーション」は印象的に使われた単語。きっと、この映画にとって大事な意味が含まれているはずだ。


ーinitiationとは
開始、創始、創業、加入、入会、入門、入会式、手ほどき、手引き、秘伝を伝えること

weblioより (https://ejje.weblio.jp/content/initiation)

しかし、意味を調べても、ますます理解は遠のいた。
「幸福の囚人であることを辞めた」=「自由への手引き」と思いきや、「破滅の開始」とも捉えられる。誘惑への勧誘、組織への帰属的なニュアンスを感じ取った。
自分を生かしているのも社会、殺すのも社会とふと感じた。


■さいごに

この映画は、月曜日のメンズデーに観に行ったにもかかわらず、女性が二人はいたのに驚いた。この日しか来れなかったのかな?

ただ映画館全体は、西部劇に出てくる場末の酒場みたいなスモーキーな空気感が漂っていて、それも含めて楽しかった。

映画館では、観ている他の観客の息遣いも感じられ、どこで反応してるかも手に取るように分かる。皆はどんな気持ちでこの映画を観ているだろうか?

過激で生々しい描写が多くハラハラさせられる内容だったけど、そうした「映画の中の抑圧」や「観ている観客の息遣い」を通して、「突然、社会不適応になった人が生きるということ」を考させられた映画だった。